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池田町屋 / 多治見市の古郷

下街道 池田宿の今昔 Vol.2 水路

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池田古地図-kawa


生活するにあたり、昔から水の確保は大事でした。
今のように水道は当然なく、京都同様に街道でも大きな宿場町の宿命か
井戸は間口から奥に位置する家もありました。

そのような中で井戸以外で貴重な水をどう確保していたか。
例の地図により昔の状況が見えてきます。

道路に沿うように黒線が這っています。
これが水路のようで、山側から下側にかけ流れ落ちる様相が見えます。
実はこの水路、明治13年の明治天皇行幸の際に街道の整備と共に
新しく引かれたもので、江戸期は道の真ん中に水路が有ったとのこと。
石灯籠(常夜灯)近くに、大きな水車があったと聞きます。


平成の今はコンクリート板の下、道路脇に深くチョロチョロと流れていますが
言われなければあんまり気づかないでしょう。

この地図に描かれてる水路は確かに見覚えがあります。
昭和の頃まで左側・池田上町には名残りが深く残っていました。
地図水路が基礎になっていたものが残っていたのです。
その地図には片側だけですが、両脇にありました。

道路右側が上水道、
野菜や食器を洗う専用の水路。

道路左側は洗濯など汚れ物専用水路。

清浄の手不浄の手のように。

これ、意外に今の町の人忘れてると思うのですが、
昭和40年代までは確かに暗黙の了解で、皆が守ってました。

なので、家前の水路には各家専用のせき止め用木板があり、
普通に畑で採れた野菜を冷してました。
特にスイカはよく冷えて美味しかったです。

夜。
水の流れがよく聞こえてました。
雨の日は激しく、普段は落ち着いた清らかな調べでした。

また、子供は常夜灯の前辺りから大きな葉っぱやダンボールなんかで作った船を流し
競争して遊んでました。
幸沢川に注ぎ落ちる寸前に大きな木板が両サイドに設けてありましたが、
その辺りは水量も多く流れが強いので、何度も折角作った船が川に落ち
同じく水量が普通にあり、流れも速かった幸沢川まで降りて拾ったことは幾度とありました。
酷い時は、観音寺川との合流近くまで探しに行ったものです。

でも、その部分が深く抉られ、コンクリが打たれ今の状態になったんですが。

今もその名残りがあります。
josui1.jpg

赤枠で囲んだところに赤錆びた三角のものが見えます。
これは右側だけにありますが、
これこそ上水道として中町から下町にかけ山水を運んでいた水路の名残りです。

機会があれば是非ご覧ください。


これら水の流れを地図で見ていると今と違う部分が幾つかありました。
特に気になった部分が薄く赤で描いたところです。
この地図が当時の状況を正しく描写していることが前提です。

幸沢川を見ると上部に永泉寺前(旧池田保育園跡地)下部、現池田保育園横の部分が
大きく右側に曲がっています。
少なくとも突き詰めて誰かに聞いたこともないし、
明治30年代生まれの祖父から聞いた覚えもないので
これから時間かけ確認しようと思います。


もう一つ、地図左側の大きく塗りつぶした部分をご覧ください。

廿原街道の上に水路とありサーッと街道の水路の源流となり描かれています。
右下に藪とありますが、確かに今もここは竹藪です。
(池田は各所に故意に竹が植えられていたようですが)

何が問題か。
僕の見解が見事に違ったのです。

水の流れは風をもたらす。

それを知り総て合点がいきました。

謎解きのようですが、
これからずーーっと長く町屋の事を調べる自分にとり
意外に早くコアな部分がクリアになり、
色々と仮説をたて町を歩ける勇気をもらいました。

何でも自分で歩かないと判らないものですね。
この件、また記事にできればと思います。



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