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「城_総合」
近隣諸城

刈安城

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大久手宿より武並方面に進むと権現山が見えてくる。
戦場坂の地名が残る刈安城は、刈安神社が控える標高600m山頂に遺構がある。
入口は石段があり階段を昇る事になるが、登り切った後両脇に控える石塔を超える辺りから比較的広い登山道が現れる。
黄褐色の山土が露胎した道は登りやすい。
途中、苅安神社の石碑を通り過ぎ、更に10分ほど登る。
一気に平場が広がり苅安神社に到着。
既にその平場は曲輪であり、神社裏に聳え立つ巨大岩(烏帽子岩)の裏に堀切・曲輪と続き笹で覆われた曲輪奥には土塁が残る。


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当城のことは各市史・郡史などに不明瞭だと書かれているが、
恵那市史が一番当城の事が書かれており、応仁の乱の1473年11月中旬、恵那の大井城と荻島城が足利幕府の命で信濃・小笠原家長と木曽家豊が攻め落としたと書かれている。
つまり遠山氏側の城であり、荻島城が刈安城を指す事が前提だが。
ちなみに、佐々良木の隣り、永禄年間の野井城城主が西尾無三延友と武並神社縁起に伝わる。

また、武並・藤城近くの洞禅院沿革では文明年間(1469-1487)に小牧大草の城主西尾式部道永が築城したとある。
その西尾氏は1代で亡んだとある様だ。
洞禅院は曹洞宗の寺院で、大草福厳寺の盛禅が延徳3年(1491)年開堂、土岐頼元創建の日吉開元院・月泉の弟子が盛禅という。



別では、天正2年(1574年)の武田軍侵攻の際、織田信忠が丹波国人の西尾道永に命じ中山道の抑えで兵300で守りを固めたと老人物語にある。

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また、慶長期に小牧大草城城主の同性同名のものが落城に拠り苅安城に籠ったとあるが、
当時、田丸氏・妻木氏の影響力が強い当地域で、仮に当時空城だったとしても容易く勝手に籠る事ができようか。
小牧・長久手で妻木は内津に出陣し、水が漏れない様は妻木戦記に描かれており、慶長期も対田丸に対し多治見・東池田より人質を奪還するほどピリピリした空気を見せている事から、落武者の団体を素通りさせるほど愚かな環境ではないと考える。

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つまり大草城の西尾と刈安の西尾は別であるのでは。
なお、瑞浪に西尾の苗字は多く、小牧大草も西尾(波多野)集落と言えるほど圧倒的に多い。

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当城は詰城の要素が強いと考える。
大久手にも砦的なものがあり、釜戸にも同じく苅安城と受け取られているものも残る。
それが西尾氏のものか判らないが、根本城の様に麓に住居を伴う館があった可能性は否定できないと思う。
鶴ヶ城にも近い立地を考えるに、戦略上重要な位置を占めていたとは感じる。

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巨大岩際を削り込まれた堀切は、長さ5mと中世城郭にはあるがそこまで全長あるのか実感はない。
先端が竪堀とあるが非常に緩やかなせいで自然地形と僕が見間違えているのか。
但し深さ2mとあるのは実感ある

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