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「城_総合」
近隣諸城

小原城 /御嵩小原

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御嵩の町郊外を国道21号で土岐より走り10分ほど、
旧中山道方面に抜ける道を走り山を一つ越えた集落・小原がある。
上之郷といわれる地区の小村だ。
周辺地域は、江戸末期より村単体で殖産興業に工夫がなされており、
磁器もいち早く取り入れられた経済的に特徴がある山村だった。
宮下・岩仙寺洞・津橋の各古窯に囲まれた当集落真ん中に白山神社がある。

この白山神社に、大永四年(1524)11月1日棟札(社殿造立)本願人に小倉吉久と思われる名が残る。
以降、寛永十四年(1637)3月16日棟札本願人に千村藤左□と出てくるまで意泉・伊楽・小右衛門の名が見られる棟札より、小倉氏が当地を領有したのは少なくとも100年以上と考える。
御嵩町史には、伝承で小倉氏は小原の豪農だったと帰農した事も触れられており、
小里記には、小倉の名も御嵩の小栗同様武田の軍門に降った記述がある。
甲州より申来り其用意有之内に小栗信濃守・小倉織部も信玄公の幕下に属し然るにより御嵩は□い甲州の御手に入申候。
天文21年(1552)に御嵩の小栗が高山城を突く為、大富まで出張るも返り討ちにされた記述だ。
もう一つの上恵土城の長谷川氏と共に、土豪同士連携しながら外敵に対応していた様だ。

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遺構だが、神社背面から畝に続く延長線上に遺構が残る。
神社の左手に一段上がった平場があり、ここを元助屋敷跡と伝わる。
平時の居館とも捉えられ、左から裏手にかけここが大手筋と見られる。

虎口らしき屈曲した段差から切岸・段曲輪を経て、第2の平場に出る。
主郭に当たる部分で、北側に緩やかに伸びる地形を利用したものだ。
突き当たりには石碑があり北西に大小4つの竪堀が這うが、それ以上に非常に厳しい切岸となっている。
北東には二重堀切を含め、更に北に自然地形の平場が見られ緩やかな景色が広がる。

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個人的な所感として、当城の意義を求めるに兼山に至る距離感だ。
武田が兼山に至るには、旧東山道(鎌倉街道)を使うのが先ず考えられる。
つまり後の中山道に当たる直線ルートではなく、釜戸から半原・日吉を抜け、
鬼岩のある御嵩志月に出てからは現R21号の宿・井尻・御嵩を通るルートだ。
 当時からいわゆる伊勢道もあったようだが、武田騎馬が抜けるには棒道・軍道が必要だったのか、軍の移動が厳しい細道であったのだろうか。
久々利氏が柿下・小名田を抜け長瀬・永保寺の大檀家となり往来があったりと、複数の間道が存在した事はわかる。

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兼山城の防波堤ともいえる連携という意味で、廃城になるまで御嵩城と共に重要な役割を担ったのは想像易い。

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