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「城_総合」
近隣諸城

山田砦

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瑞浪南部の19号バイパス上丘稜帯にある山田地区。
旭王寺東部の標高240m頂上部にある当城は、裏手に墓地もあり歩道があるものの薄暗く生い茂った草木の中をかけ分けて入る。
帰りに気づいたが、搦手なのか出口へは意外にもあっさりしている。

当山田地区は、秀吉政権下、所謂太閤検地にて上山田百二十石は松岡惣左衛門、八十石分は落合太郎助、五十石分は塙?甚良助、百石分は田中治郎兵衛の各妻木家中、下山田分は同家老の森惣兵衛の所領だったと妻木戦記に見える。

小里家譜では、実際に戦闘の表舞台として「光明山田ノ砦」と土岐一族の尾里光明が詰めていた姿が書かれている。
光明は領地を取り返すべく三河方についた武将であるため、東濃地区にかなり松平勢が入り込んでいた事が伺い知れる。
(当光明は和田光明とも称され、和田も土岐一族の和田と考えれば、織豊政権化においても妻木と共に土岐一族が残っていると言える)
また、当城では森氏家紋入り銅鏡が出土しており、砦としているが生活空間があったとすれば城と称して差し支えないと考える。

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なお、南砦頂上に宝篋印塔があったと1983年の瑞浪市教育委員会の報告にあるが、所在がわからなかった。
16世紀造立と考えられており、戦死者の弔いの為に建立されたとすれば、築城時期とされる天正12年小牧長久手の頃と合致する。

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縄張りは簡単ではあるが、確かに横堀を主郭を取り囲む様に巡らした様は同時期の修繕されたと云われる旧可児郡諸城に似る。

また、明確な堀切による区間分断もされた目的が防御に特化した造りであり、当地での必要性を考えると元来森方(秀吉方)が対三河対策で中馬からの勢力を防ぐために駄知の城ケ根砦など他近隣と同様設けられた性格があると美濃源氏フォーラムの方だったか論じられていたが完全に同意する。
高山・森の本城である兼山ラインは無論、小里城と妻木城の間は距離があるが、それにしては幾通りも川が流れており、人が移動するのは容易い地。
路がある東濃内部へ一気に雪崩れ込む事が可能。
なれば詰城を一定距離に設けるのは必然だったといえる。

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主郭と見られる2段の平坦地南の横堀下に段々の平坦地には、竹藪が茂った手付かずの状態で残る。



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