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池田町屋 / 多治見市の古郷

「多治見に行く」

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いしどうろう

8日池田町屋公民館で敬老会があった。
その中で来賓の市長が挨拶で、多治見駅前に高層マンション/14Fまでをホテル・更に下層でショッピングモールができると話された。
「駅裏に」行くと会話の中で皆さん使われているが~と言うのが前振りだった。

そう言えば僕たちの世代は「駅前・駅裏」に行くって言うなぁと思いだした。
うちの中学の娘は「駅前・北口」と言い方が違っている。
ただ、自分が小学生の頃は「駅前・駅裏」でなく、「多治見」にいくと言っていた。
明治・大正世代と同居の家はもれなくこの言い方をしていたと思う。
今「多治見に行く」を使う人は高齢者の方でもかなり少ないのではないか。

実はこの「多治見に行く」というのは、とても大事な事なのである。
それは池田のアイデンティティを表す言葉なのだ。

池田の人間は、多治見は別行政地区であり、土岐・瑞浪などとと同格の行政地区だった自負からくるものである。
(土岐も妻木・肥田・高山と各自負があるだろう)

江戸中期に多治見には数件の商業施設があるのに対し、池田は数十件の商業施設があった。
名前も「町屋」を付け、江戸末期の西浦一族が活躍し多治見が陶磁器で隆盛を極めるも、
銀行・電力会社など団体への出資者は、池田の斎藤一族を中心に数多く、決して多治見・豊岡に引けをとるものではなかった。
その名残りからか当時を生きてきた池田の人たちは、多治見に対する対抗心は強いものがあったであろう。
当然、中央線の駅設置の際、当時下街道随一の宿場を有した池田に対し先ず打診はあったものの、
当時の蒸気機関車から噴き出す煤煙・火の粉による災害等影響を危惧し、何もなかった長瀬の湿地帯に駅ができ後年発展した事に対し身から出た錆とはいえ敏感に感じていた事は想像がつく。
現に昭和50年代に宿場の名残を無くした当り、バブルより平成に入る頃にはすっかり「多治見に行く」は死語になった感はある。

地域で使う言葉の変遷は、その時世を強く反映したものになる。
今の地元の若者が、広小路・銀座・長瀬 + 行くを使う人間がいるだろうか。

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