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池田町屋 / 多治見市の古郷

御嶽神社  ~忘れ去られた歴史~

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どの土地にでも『忘れ去られた地』というのはあります。
忘れる=意識しなくなった結果
なんですが、人は潜在的に何かを担保にすれば忘れる生き物のようです。

30年後、まだ生きてるだろうとタカをくくっていると、これが意外に忘れていることに気づきます。

50年は尚更、100年も経てば完全に歴史です。


今回ご紹介するのは、御嶽山です。

名前の通り、御嶽山を倣い祭祀されているところです。
本来なら木陰の切れ目から恵那山を越え御嶽山を望みたいところですが、
信仰篤い昔の人たちが登っていた場所になります。

平成13年に社堂再建されたとありますが、確かに湯呑など定期的にお世話して下さっている方々がいると思いますが、
何にしろ行くまでの道が獣道に変わり果てており、倒木が横を遮り、敷地内は荒れています。

僕が小さいころは道が緩やかで広く感じたものでした。
祖母が月に数回(週に一回は『御嶽山にいく』と言い、お供え持って出かけてた)、1人ないし近所の人とお参りしていたので
場所を覚えてるというより、その祖母の言動を覚えてると言った方が正確かもしれません。

今では石燈籠(字が消えかけてますが、明治弐十?年建立)も一部が欠け、いつ崩落してもおかしくない状態にあります。

石碑にある『村中安全』の文字が今では悲しいですが、
池田宿に宿泊する旅人も道中安全を祈り、立ち寄ったかもしれないと思うと浪漫があります。

石碑は幾つかありますが、その中で注目したのは2つ。

一つは二十二夜碑、いわゆる講(特に二十二は女性・お産の神)で、この地に定期的に集まっていたことがわかります。
裏面には明治26年8月 発起人・神宮教師となっています。

他石碑に土岐川の川替え工事で活躍した村長、斎藤常七の名も彫られてるので、
この石碑群は明治20年代を中心に作られていったものと考えられます。


そこでもう一つ注目したのが、その時期より30年前の安政2年(1855年)建立の秋葉神社碑です。
1世代前なので、信仰のカタチが少しずつ地道に浸透していたことがわかります。
下街道の常夜燈にも秋葉山と書かれ、建立されたのが文久9年(1826年)。
石碑が建立される更に1世代前、既に祭祀されていた可能性もありとても興味深いです。


町屋には富士山に見立てた池田富士を崇拝する白山・富士・立山信仰が鎌倉~江戸期にはあり、
近世も地元に深く根付いてる御嶽山信仰も含め、この地域はスピリチュアルな側面を強く持つ土地なのだと気が付きます。





多くの歴史解説で『文献に見られる~』の下りがありますが、僕は凄く参考になるけどそれが全てでないと認識しています。
確かに、上流社会においては『文』そのものが発達していて、知識階層同士が交流したカタチ(会談・文学・建築物など)を留めるには文書化するのが便利であり、かつ証明付けるには有意義なツールだったからです。
多治見に目を転じても、無窓国師が開祖した永保寺は流石一線級の扱いがされて然るべき歴史に包まれた地なので、比較的豊富な文献があるでしょう。

その反面、時の権力に不都合な文面あらば最悪抹消される、いわゆる焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)になります。
また、社会的地位の高い然るべき所からでた『文書』は、それが正道と言われ始め、『事実』と全く違うものが『歴史』として崇められる最悪な状態になります。

『時間』と『権力』がマガイモノを『歴史』として認識されてしまう、こわーいお話です。
事実、僕が良く知る世界でもこれがあり、地位・名誉で塗り固められた当時の研究成果が、今もその権力を受け継ぐ者たちに守られ、過ちを正さない呆れた事象が起こっています。
人は社会的地位を物差しにするのが常なので仕方のない事ですから、騙されている人々はお気の毒だなと残念に思っています。


ただし、風俗は違います。
僕はよく文化の発展が風俗になると言いますが、
文化とは一時的な流行、カタチであり、それが永く恒常化することは風俗に昇華すると考えます。
今のように情報が比較的フラットに手に入る時代とは違い、昔は限られた層から派生したものが文書化し、地方に伝播し、時の文化となりました。(文に化けるわけですね)
当然伝播にタイムラグがあり、村々の総ての人が知るまでに何十年かかったこともあるでしょう。
そのような一般化されず一部に支持されるのは文化であり、平準化した知識が2次的になると風俗に移ろいます。

だから昔から残すべきものは、語り部からの伝承が有意義だったのです。

重要なことですが、今と違い明治中期までは少なくとも文盲率が高かったですね。
文書化しても字を読めない人たちはイミフなわけです。

あと、あまりにも日常化したものって人はなかなか書き残しませんよね。
例えば今日コーヒー飲んだとか、ある意味どうでもよい情報です。
でもその事を残すことが、後世にとって重要な情報になっているかもしれません。

つまり、いま池田に残っている貴重な情報は、日々努力され情報収集・文献解読された先生たちのお蔭で成り立っていますが、
たわいもない事は意外に残っていないのです。

だってそれは当然です。
本来であれば、そのような風俗になったどうでもよい事は、池田の住民が語り継ぐべきことです。
後世のために必ず情報財産となるものは、住民が意識して残すべきことなのです。

明治当時の池田の様子を知るために、公民館記録簿を見るわけです。
もう明治に記憶がある人々は、池田の地にはいません。
公民館日誌のような公的文書に頼るしかないのです。
昭和36年に町名変更が多治見市で実施され、池田の住所も現在の呼称に変わりましたが、僕の祖父の名前(池田町屋郷土史に名前がチラっと載っているにも関わらず)が違って記載されてます。
公文書でもこのような間違いが普通にあるわけで、文書化されたものと語り部とイメージで単純に精度を図ってはいけないのです。

比較的教育熱心だったといわれる池田町屋の人でも、江戸~明治に教育を受けていたと限らず、農繁期は学校にいくわけがありません。

人に忘れ去られたというのは、一つの事実であり悲しいことですが、一部の方々に留めず、いかに今の子供たちを中心に昔の風俗に面会させることができるか
草の根でも活動はしていく事が大事だと考えています。

恐らく、御嶽山の所在を知る者は僕ら世代が最後になっていると感じます。
せめて公民館の祭事や学校行事に町屋の歴史を体系的に感じられる機会が増えることを祈ってます。

このような事から、僕は文献はとても参考にしてますが、明治生まれの祖父祖母、近所のおじいちゃん・おばあちゃん達から聞いた情報をとても大事にし、このブログ記事の中心にしています。

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ちなみに、意外に知られていない町屋の事実ですが、明治(江戸末期からかもしれません)~昭和初期、自分たちの住んでる町屋の地域のことを
大門・川合洞など旧町名以外に 上町・中町・下町と呼んでいました。
それはまた後日。


※ 僕は外野なので書きたいコト書いてますが、総て町屋を愛しているからでありご察しください。






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